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話せば伝わるという誤解 ミスの指摘と生存本能
黙っていても自分の仕事がすべて評価されるわけではない(中略)「話せば伝わる」のであれば十分良いと思うべきだ

自分が上司との1on1でよく話している内容」というエントリで感銘を受けた一文だ。

この一文は、話しても伝わらないケースがあることを示唆している。ここで挙げられているのは、エンジニアとPMといったように職能が異なることから仕事の細部まで理解できないケースだが、話しても伝わらないケースは他にもある。筆者の書きぶりから、筆者はそれを理解していると想像できる。同じチーム、同じエンジニア(職能)のようなもっと近い関係でも伝わらないケースがあることを。

少し私の自己紹介をしておく。私はCREというエンジニアのグループをマネジメントしているEM(エンジニアリングマネージャー)…と言えば聞こえはいいが、本当のところはただのしがない中間管理職だ。自身もエンジニアとしてコードを書くが、コードを書くのと同じくらい、人と組織の振る舞いに関心がある。組織のアウトプットは人数の増加に比例しないというのは身をもって知ってきたし、それでもどうすれば今より良くできるかということを日々考えている。

今日はその中でも、私たちが頭ではわかっているのについ陥ってしまう「話せば伝わるという誤解」について書いてみたい。

話しても伝わらない。そんなコミュニケーション不和はいたるところで起こっている。厚生労働省平成30年(2018)人口動態統計の年間推計によると、離婚件数は婚姻件数の3分の1にのぼる。もちろん、離婚の全てがコミュニケーション不和によるとは限らない。しかし、夫婦よりも絆の弱い、偶然同じ会社で偶然同じチームになっただけの他人と、どうして上手くやれるというのだろう。

「ブリリアントジャーク」は知性を振りかざして同僚や部下をいびり、辛辣な物言いで反対意見を斬り捨て、自分に太刀打ちするなど到底無理と見なした同僚や部下には目もくれず(あるいは大っぴらに鬱憤晴らしの標的にする)といった行動に出るわけです。

エンジニアのためのマネジメントキャリアパス」で紹介されているブリリアントジャークは昔ほどは見なくなった。とはいえ、ブリリアントジャークのように明らかな敵意がなくてもコミュニケーション不和は起こる。

「言ってることは正しいけどなんかムカつく」

「わかるけどそんな言い方ないんじゃない?」

間違いを指摘されて、こんな風に思ったことは誰にでもあるだろう。「些細なことじゃないか」と軽く見てはならない。「千丈の堤も蟻の一穴から」ということわざがあるように、この小さなストレスの蓄積が最後にはチームをも崩壊させてしまう。

「間違いの指摘」はコミュニケーションの中でも特に難しく、コミュニケーション不和のきっかけになりやすい。なぜ間違いの指摘は難しいのか?間違いを指摘するにはどうすれば良いのだろうか?

多くの人は「あなたは間違っている」と言われるのが怖いし、できれば否定ではなく承認されたいと思いながら生きている。

メンバーが自分は認められていると感じるためには、日頃から承認(認めていること)の態度を示し続けることが重要です。

先日話題になった「引っぱらないリーダーのチーム作り戦術」でも、チームビルディングにおける承認の重要性が強調されている。なぜ人は承認されたいのだろうか?その答えは人類の進化の歴史に垣間見ることができる。

人間は、生命の維持に必要なシステムの多くが未発達な、未熟な段階で生まれる。(中略)人間が子供を育てるには、仲間が力を合わせなければならないのだ。したがって、進化は社会的絆を結べる者を優先した。

出典の「サピエンス全史」は、まだ読んでいる途中だが、とてもおもしろい。自分固有のものと思っていた考えや行動は、実は250万年前から続いてきた人類の進化という大きな流れのほんの些細な一過程でしかないことを教えてくれる。みなさんもぜひ手に取ってほしい。

話を戻そう。「進化が社会的絆を結べる者を優先した」というのは、言い換えれば「社会的絆を結べない者は淘汰された」ということに他ならない。およそ250万年もの間、仲間から否定されることは死を意味していたのだ。現代では他人に否定されても死ぬことはない。それなのに否定されたくないと感じてしまうのは、原初の生存本能ゆえと理解すべきであろう。

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否定は原初の生存本能を呼び覚ます

間違いを指摘するとき、相手に否定と受け取られてしまうと、相手は防衛本能をフル稼働して身構える。言い訳や反論を考えている状態がそうだ。指摘を受け取るには、この防衛本能が作動しないようにするための心の準備がいる。正論をぶつけても相手が否定と受け取れば届かないのだ。特にメールやSlackといったテキストコミュニケーションにおいては、表情や身振り、声のトーンといった非言語情報が欠落するので、もう到底不可能に思える。

そこで少し発想を変えて、「指摘を指摘にしない」ということを考えてみよう。

間違いを指摘することの難しさは「人を動かす」にも書かれている。それと同時に、指摘よりも上手く間違いを伝えるための偉人の名言が紹介されている。次のようなものだ。

教えないふりをして相手に教え、相手が知らないことは、忘れているのだと言ってやる

−−アレクサンダー・ホープ

人に物を教えることはできない。自ら気づく手助けができるだけだ

−−ガリレオ

できれば、人より賢くなりなさい。しかし、それを、人に知らせてはいけない

−−チェスターフィールド卿

これらの共通点はなんだろうか?それは、人の過ちを指摘してはならないということだ。そんなことを言うと「間違いをそのまま見過ごすのか?」という声が聞こえてきそうだが、もちろんそうではない。ここで大事なことは2つある。1つは、間違いをそのまま間違いだと言って相手や相手の行動を否定しないこと。誤解を恐れずに言うと、「相手に恥をかかせない」ということだ。そしてもう1つは、自ら気付かせることだ。

例えば、若いA君の制作物を見て、設計がまずいと思ったときのことを考えてみよう。

「A君、この設計はダメだ。これだとこういうケースが考慮されていないじゃないか」

「A君、おそらくこういう意図があってこういう設計にしたと思うんだけど、こんなケースはどうしよう?」

これは極端な例だが、後者の方がA君は前向きに受け取ってくれるだろう。後者は一切否定していない。前者のように否定されると、A君は反省と自己弁護のため過去に目を向けてしまう。一方、後者は自ら気付かせる聞き方なのでA君は未来に目を向ける。

次に、もう少し微妙な例を見てみよう。

「Bさん、あの案件は事前にもう少し調査すべきだったと思います」

よく見る光景だが、いったい何が問題なのだろう?

人によって意見が分かれるだろうと前置きしておくが、ひとつ気になるとすれば、Bさんの事情を考慮したかどうかという点だ。Bさんには事情があって仕事が雑になってしまったのかもしれないし、Bさん自身それに気付いているかもしれない。もしそうだとすれば、この指摘は生産的とは言えない。

「かもしれない、ばかり考慮していたらキリがない」そんな声が聞こえてきそうだが、本来の目的を思い出してほしい。指摘の目的は情報を「投げつける」ことではなく「伝える」ことだ。回りくどく感じても、相手の事情を考慮した方が伝わるなら、そうするのが合理的ではないだろうか。私はそう思う。ただし当然、「常識の範囲内で」という制約は付く。

新一万円札の顔である渋沢栄一氏の講話録「現代語訳 論語と算盤」では、常識について次のように書かれている。

ごく一般的な人情に通じて、世間の考え方を理解し、物事をうまく処理できる能力が、常識に外ならない。

およそ500もの会社の設立に関わった渋沢栄一氏が「人情に通じて」と言うのだから重みが違う。結局のところ、何事も相手を思いやる気持ちを欠いてはならないということに尽きるのだ。

なぜこんなことを書いたかというと、それは私がコミュニケーションやモチベーションに関心があるからだと思う。非言語コミュニケーションには学生時代から興味を持っているし(得意というわけではないが)、社会人になってからは7年間カスタマーサポートに関わっている。

一方で、こういう話題を嫌う人がいるのも承知している。だからこういう話題で書くときはいつも、反感を買ったらどうしようとか否定されたくないとか思いつつも、結局のところ、話しても伝わるとは限らないが、話さなければ絶対に伝わらない、と思い直して書くようにしている。

ミスを指摘をするにあたり「相手を思いやって否定しない」ということを述べたが、それは決してぬるま湯のような「なぁなぁの関係」でいろと言っているわけではないことに留意してほしい。伝え方の問題であって、言うべきことを言わないのは思いやりではない。

物事を合理的に考え客観的に伝えることは大事だ。特に理系は学生時代、主観を論文に書いてはならないと耳にタコができるほど言われてきた。私が言いたいのは、物事を客観的に伝えるのは大事だが、人の感情を蔑ろにして良い理由にはならないということだ。どうせならお互い気持ち良く働きたいだろう。

Thank you!
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