インターネット企業は、強迫観念のように人を雇い、でたらめに浪費し、はなばなしく散るというのが相場だ。
鋭い書き出しで始まる「小さなチーム、大きな仕事」は、「残業するのが偉い」とか、「マネタイズは後回しでいい」とか、そんなビジネスの世界にはびこる嘘をバッサリと切り捨ててくれる。
そして著者はなんと、エンジニアなら誰でも知っている、かの有名なRuby on Railsの作者でもある!スゴイ!
このエントリでは、「小さなチーム、大きな仕事」の内容をまとめる。
たくさん働くことは、よりよいケアができることや、たくさん達成できることを意味しない。単にたくさん働いたというだけだ。
なんとも痛快である。
そして「たくさん働く」のを良しとした場合の悪影響はこうだ。
仕事依存症患者は、単に長時間働いていないという理由で、遅くまで居残らない人たちを能力に欠けているとみなす。これは罪悪感と士気の低下を招く。さらには実際には生産的ではないのに、義務感から遅くまで居残るような「座っていればいい」というメンタリティを生み出してしまう。
誰でも一度は経験したであろう「帰りづらい雰囲気」だ。
仕事依存症患者には次のように言ってあげよう。
普通よりも一〇倍効率的な人とそうでない人を分けているのは、効率的な人たちが一〇倍懸命に働いているからではない。彼らは一〇分の一の労力しか必要ない解決策を思いつくのに創造性を使っているのだ。
もちろんオフのときにしっかり休んで、万全の状態で仕事に臨めるよう普段から体調を整えておくのは必須である。
モチベーションについてはこう書かれている。
大きな仕事をするには、何かを良くしているという感覚が必要だ。世界にささやかに貢献している、あなたは重要なものの一部である、という感覚だ。
以前書いたが、その時代で主流となる価値観に沿う考えを持ち、(それがたとえ妄想だとしても)信じることが個人の幸せやモチベーションにつながるのだ。
「仕事が趣味だ」という人はよく聞くが、趣味と仕事を分けるのは何だろうか?
ビジネスに対して「利益を上げる方法は将来見つける」なんて態度をとる人は話にならない。ロケットを建造するのに「とりあえず重力はないことにしましょう」と言って始めるようなものだ。利益にいたる方針のないものはビジネスとは言わない。それは趣味だ。
不思議なことに、「重力はないことにしましょう」と似たような話はスタートアップや新規事業ではよく見られる。
それは単に趣味と言う。
一度失敗した状況で決断することは、言葉で語る以上に難しい。
物事がうまくいかないと、人はその問題にさらに多くの人、時間、資金をつぎ込もうとする。だが、そうすると問題が大きくなってしまう。進むべき正しい道は逆の方向、すなわち減らすことだ。
既に費やしてしまって回収不可能なコストのことを、経済の用語で「サンクコスト(埋没費用)」という。
「既にこれだけ費やしたんだから...」という考えが決断を誤らせてしまうのだ。
「かと言ってここでやめるわけにもいかない。失敗になってしまうのだから」
本当にそうだろうか?
人はやめることを失敗と関連づけがちだが、時にはそれがまさに今すべきことである場合もある。すでに一つのことにそれだけの価値がないほど多すぎる時間を費やしたのであれば、そこから手を引くこと。その時間を取り返すことはできないが、最悪なのはさらに多くの時間を無駄にすることだ。
冷静に最悪のケースを想像しよう。
それは、さらに多くのコストを注ぎ込んで失敗することに他ならない。
大きな決断をするのは難しいし、変えるのも難しい。そして一度大きな決断をすると、たとえそうではなかったとしても自分は正しい決断をしたと信じ続ける傾向がある。客観的ではなくなってしまうのだ。
注意しなければならないのは、大きな決断をすると、自分は正しかったと思うバイアスがかかってしまうことだ。
このことは心に留めておかねばならないだろう。
もうひとつ、決断について回るのは周囲のネガティブな反応だ。
本書にはこう書かれている。
人は習慣の生き物だ。何かが変わるだけでネガティブな反応を示す。習慣が乱されると反発し、文句を言い、元の状態に戻せと訴える。 だからといって、それにすぐ反応してはいけない。もし決断に自信があるのならば、不評でも突き進まなくてはならない。
大きな決断の前には、前もって慎重にコミュニケーションを取っておかなければならない。
買ったばかりの何かに不意に傷がついてしまったとき、さぞ残念で悲しい気持ちになるだろう。
欠点を見せることを恐れてはいけない。不完全さはリアルであり、人はリアルなものに反応するのだ。だから、僕たちはいつまでも変わらないプラスチックの花より、しおれてしまう本物の花が好きなのだ。
傷は、自分が使ったリアルな証だ。そんな風に考えることもできる。
「心理的安全性」という言葉を最近よく耳にするようになった。
物事が厳しくなったときにみんなが率直に自分の意見が言えるような環境が必要だ。それがないと、人の感情は傷つけないが誰にも愛されない商品を作ることになる。
心理的安全性とは、なあなあでなまぬるい関係のことではない。
言うべきことを言える関係でなければ心理的安全性があるとは言えない。
難しいけれど。
採用には皆、日々頭を悩ませていることだろう。
私もそのひとりである。
あなた自身の直観を信じよう。もし文章の初めに違和感を感じれば、続きの文章から印象が変わることはないだろう。最初の三行でしっくりこなければ、残念ながら縁がない。
私も直感を信じることは大切にしている。
何か違和感がないか探るのだ。
そのためには文章を書かせると良いらしい。
文章力がある人はそれ以上のものを持っている。文章がはっきりしているということは、考え方がはっきりしているということだ。文章家は、コミュニケーションのコツもわかっている。物事を他人に理解しやすいようにする。他人の立場に立って考えられる。彼らは、何を省けばいいかもわかっている。
「文章を書く」というのは、たった二文節の言葉以上に大切なエッセンスが詰まっている。
文章を書くには、日頃から考えていなければならないし、考えを整理してアウトプットしていなければならない。
それだけではまだ足りない。
読まれる文章を書くには、読み手のことを想像したり、たくさんの文章を読んだり、もっとたくさんのことを勉強しなければならない。
そう考えると、採用はコミュニケーションなのかもしれない。
正しい謝り方なんてないが、間違った謝り方は山ほどある。 最も悪いのは「本当は謝っていない」謝り方だ。たとえば「ご迷惑をおかけしたならすみません」や「あなたの期待にそえず残念です」など。 良い謝り方とは、責任を認めるものだ。(中略) 謝り方の原則は、それを受ける側だとしたらあなたはどう感じるか、もし、それを言われたらあなたは相手を信じるか、を念頭におくことだ。
残念ながら、こんな謝罪の例はよく見る。
下手なコミュニケーションの例だ。
自分に非がある場合、スパッと謝った方がカッコいい。
チーム全員が顧客とかかわりをもたなければならない。もちろんいつもではなく、年に二、三回でもいい。これこそ、チームが顧客の気持ちを理解する唯一の方法だ。顧客の不満を共有すれば問題を解決する気になるし、顧客のうれしさが伝わってくれば、大きな刺激になる。
カスタマーサポートでなくても、たまには顧客対応をやってみよう。
リアルな顧客の声に触れることで、忘れていた初心を思い出せるはずだ。
文章が書けるのと、読まれる文章との間には大きな隔たりがある。
なぜか?
読まれるために書くのであって、書くためだけに書くのではない。何かを書いたら、朗読してみよう。人と話しているときのように読めるだろうか? どうしたらもっと会話調にできるだろうか?
そう、論文でもなければ、いや、論文でさえ、堅苦しい文章よりも読みやすい文章の方が好んで読まれるということだ。
読まれる文章はユーザー志向でなければならない。
あなたの言葉を読むであろう人たち全員のことを考えながら書いてはならない。一人のことを考え、その人のために書こう。
そして重要なことがもうひとつ。
当たり障りのないことではなく、熱い想いを誰かひとりのために届けよう。
以上、このエントリでは「小さなチーム、大きな仕事」の内容をまとめた。
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