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「あいつらは何もわかってない」の危うさ
「あいつらは何もわかってない」

こんなセリフを、誰しも一度は言ったことがあるはずだ。

「あいつら」には、営業や人事、開発みたいな他部署が入ったり、経営者やマネージャーといった別レイヤーが入ったりする。

私も例外ではない。そう思っていたし、実際に言ったこともある。声に出してみるとすっきりするんだぜ。

でもこの考えは結構危険だ。何が危険なのか、書いてみたいと思う。

自分はあいつらとは違う

自分はあいつらとは違う。

これは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。

私たちには、本能的に分断を見出してしまう性質がある。

ファクトフルネスから引用してみよう。

人は誰しも、さまざまな物事や人々を2つのグループに分けないと気がすまないものだ。そして、その2つのグループのあいだには、決して埋まることのない溝があるはずだと思い込む。

人種差別や民族紛争、ジェンダーの問題など、人類の歴史には分断と分断による争いが絶えない。

これらの問題を、自分とは関係のない、どこか遠い世界で起こっているものと思うだろうか?

自分はあいつらとは違う。些細だが、そう思うところから分断が始まると、私は思う。

そもそも、人事や営業のあいつら、経営者やマネージャーのあいつらは、戦うべき敵なのだろうか?

自分とあいつらは違う。その通りだ。だからこそ、共通の目的・目標を掲げているのではなかったか?

違いを責め、分断し争うのが目的ではないはずだ。

これはあいつらのせい

私たちの本能にはもうひとつ、分断を生み出す悪い性質がある。

「これはあいつらのせい」というやつだ。

再びファクトフルネスから引用する。

物事がうまくいかないと、誰かがわざと悪いことを仕組んだように思いがちだ。誰かの意思で物事は起きると信じたいものだし、一人ひとりに社会を動かす力と手立てがあると信じていれば、おのずとそう考えるようになるだろう。

何か都合の悪いことが起きたとき、やれ人事のせいだ、やれマネージャーのせいだと言うのは簡単だ。わかったような気になれるし、すっきりする。

しかしながら、都合の悪いことはいつだって誰かのせいで起こるわけじゃない。そんなのは正義のヒーローを信じる子供の考えだ。

大人は違う。

事情を知っていたら自分だってそうするかもしれない。人ひとりの意思で勝手にできるほど社会は単純じゃない。都合の悪いことがどうしようもない理由で、どうしようもないタイミングで起こることもある。自分はそれを見越して対策できなかったのか。

こんな風に考えるのが大人だろう。

私は、何かを誰かのせいにしたくなったときはいつも、この画像を思い出すようにしている。

Image in a image block
誰かのせいにしたいが自分の顔しか思い浮かばない

以上、「あいつらは何もわかってない」という言葉が内包する危険性について書いてみた。

年齢を重ねるほど、自分が思ってる以上に周りの若い人に与える影響(良い影響も悪い影響も)が大きくなるので気を付けたい。という自戒だ。

ちなみに、紹介した2つの思い込みをファクトフルネスでは「分断本能」と「犯人捜し本能」と呼んでいる。

ファクトフルネスについては以前まとめ記事を書いたので、興味がある人は読んでみてほしい。

Thank you!
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